たそがれ迫る東京霞が関。経産省正門前でマイクを握りしめ、声をからして訴える女性がいた。福島県双葉町出身の亀屋幸子さん(60代)だ。福島第一原発からわずか1・2キロの所に住んでいた亀屋さんは、事故が起きると着の身着のままで避難した。
「オリンピックをやってもいいけど東北の電気を使わないで下さい。その代わり東京湾に東電の原発を作って下さい」。
「オリンピックが決まった時、悔しくて悲しくて涙が止まりませんでした。私たち(福島の事故)の時も、国会議員の先生たちがオリンピックのように一丸になってくれていたら放射能対策も避難ももっと早くできていたのに」。
「オリンピックが来ると資材も人材も東京に来て福島の復興が遅れる」。
亀屋さんの目は真っ赤だ。
~脱原発テント、多事多難の2年が過ぎ~
原子力村の総本山とも言える経産省に匕首(あいくち)を突き付ける「脱原発テント」。建てられてから、きょう(11日)で2年が過ぎた。
テントを支えてきたメンバーや支援の市民たちが、きょう夕方、3年目突入を記念して経産省前で抗議集会を開いた。冒頭出てくる亀屋さんの訴えは、抗議集会のひとコマだ。
2年間は多事多難だった。街宣右翼やエセ右翼に襲われたこともあった。危うく取り壊されそうになった時さえあった。その都度、応援の市民たちが駆け付け体を張って守った。
テントは国から「立ち退き」を求める裁判を起こされている。現在、東京地裁で審理が進められている(被告はテント共同代表の渕上太郎氏と正清太一氏)。権力側は目障りなテントをあの手この手で潰そうとしているようだ。
テント共同代表の渕上太郎さんは「こうなったら5年でも10年でも問題が解決するまで(テントを)続ける」と話す。問題が解決するまでとは、原発がなくなるまでという意味だ。
「原発いらない福島の女たち」の椎名千恵子さんと黒田節子さんもテントを守ってきた。
「いろんな人と交流、避難者たちの待ち合わせの場所がテントだった」。黒田さんはしみじみと振り返った。
「テントで皆とつながっている。日本だけでなく『命を守りたい』と思う世界の人と」。眼差しを遠くに置きながら話すのは椎名さんだ。実際にテントにはパレスチナから連帯のメッセージが届くなどしている。
テントの存在は「原発事故は政府のコントロール下にある」とする安倍首相の見解と矛盾する。テント撤去の裁判は3審まで行き、長期間を要する。政府はオリンピック開催の2020年までには、何としてでもテントを無くしたいはずだ。
たとえ経産省前のテントが強制撤去されたとしても、原発を止めたいと願う市民たちは別の場所に「脱原発テント」を建てるだろう。
《文・田中龍作 / 諏訪都》