イスラエル国境に近いガザ東部のアル・シジャーイヤには、イスラエル軍の苛烈な爆撃が続いていた。昼夜を隔てずして空と陸から砲弾が雨あられと浴びせられていた。
夥しい数の犠牲者が出ていることは自明の理だった。負傷者の救出に向かう救急車に、筆者は同乗した。24時間以上の「本格停戦」など、まだない頃だった。レスキュー隊の使命感の高さには敬服する他なかった。
負傷者の救出作業のためにレスキュー隊は、赤新月社(アラブ社会の赤十字)を通して、わずか2~3時間の「人道停戦」をイスラエルに求めていたのだった。
レスキュー隊の隊長(と見られる人物)が、筆者を日本人ジャーナリストと知るや、人なつっこい笑顔で言った――
「日本の援助で機材を揃えていたんだ。それなのに7年前から援助を打ち切られた。レスキュー活動が満足にできないよ。(日本に)帰ったら援助を再開するように言ってくれよ」。
消防車の車体には『Japan ODA』とシールが貼られていた(写真・上段)。
7年前とは2007年のこと。ハマスがガザを名実ともに支配するようになったことから、イスラエルがガザの本格封鎖を始めた年だ。
米国にひたすら追従する日本はイスラエルに同調する形で、ガザ地区への援助を打ち切ったのだろう。
空爆にあったガザ市内のビルで生き埋めになり、機材さえあれば救出できたケースが前日にあったばかりだった。
日本の援助が数多くの命を救ってきたことも事実である。2007年以降は、援助が打ち切られ、助かる命も助からなくなった。これもまた重い事実だ。
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紙幅の都合により『ガザ発』の記事にはできなかったものの、伝えなくてはならない事が あまた あります。『ガザ点描』で少しずつ掲載して行きます。