きょうは6月4日。33年前、民主化運動が中国人民解放軍に武力鎮圧された忌むべき日だ。
香港を席捲したデモ(2019年)の取材はつらかった。目の前で少年少女たちが次々と逮捕されていく。ドーベルマンのごとく屈強で大柄な機動隊員が膝を少年たちの首筋に置いて全体重をかけるのだ。
人権どころか人命さえもお構いなしだった。ピクリとも動かなくなった少年もいた。
ジャーナリストたちはプレスゼッケンをつけ取材に臨む。投宿先のホテルのすぐ前がデモの現場となることも珍しくなかった。
プレスゼッケンをつけ、一眼レフを首にぶら下げていれば、誰が見てもジャーナリストだと分かる。エレベーターに乗り合わせたホテルの女性スタッフが私を見るなり、目を真っ赤にして声を震わせながら言った。「Thank you for staying with Hong Kong」。
兄か妹が勇武派(デモ隊)であることは、言われなくても分かった。
ウクライナ取材中、地元テレビ局の記者から「いつまで(当地に)滞在するのか?」と聞かれたので、私は「プーチンが戦争を止めるまで」と答えた。
地元記者は私とのやりとりを自らのFacebookに投稿した。「リュウサク・タナカというウォー・コレスポンダント(戦場記者)が来ていて、彼はウクライナの勝利を見届けるまで滞在するそうだ」。
投稿には地元記者と私のツーショットが添えられていた。
投稿から間もなく、投宿先のホテルの女性従業員が嬉しそうな顔をしてスマホを私に見せた。スマホの画面には私と地元記者のツーショットが。
ウクライナはまだ寒かった。連日のように小雪が舞った。かかとのヒビ割れが痛くて私は足を引きずるようにして歩いていた。
ある日、取材を終えてホテル帰って来ると、彼女が私にそっとある物を差し出した。包みを開けてみると暖かそうな靴下だった。
しばらく経って知ったのだが、彼女の実兄はウクライナ軍兵士だ。激戦地である東部の前線に送られているという。明日をも知れない命である。
香港とウクライナ。片や中国に、片やロシアに痛めつけられる。弱者の側からの取材をこれからも続けたい。
~終わり~