「原発さえなければ…」の遺書を残して自死した福島の酪農家の妻が、東電を相手取り1億円余りの損害賠償を求める裁判を起こす。提訴を来月に控えた妻の菅野バネッサさん(34歳)がきょう午前、東電本店を訪れ「誠実な対応」を求める申し入れ書を手渡した。
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2000年に相馬市の酪農家、菅野重清さん(享年54歳)と国際結婚したフィリピン人のバネッサさんは、牛と自然に囲まれ何ひとつ不自由のない生活を送っていた。重清さんとの間に2人の男の子(現在8歳と6歳)も授かった。
生乳、育牛と堆肥で生計を立てていた菅野さんは、500万円の借金をして堆肥小屋を建てた。2011年1月のことだ。
2ヵ月後の2011年3月11日、原発事故が起きる。放射能を浴びた生乳は出荷停止となり、堆肥も売れなくなる。一家は収入の道を閉ざされた。
4月17日、バネッサさんは2人の息子を連れてフィリピンに帰国する。28日、重清さんもフィリピンに。牛38頭の世話は知人、友人に頼んだ。
5月4日、重清さん単身で日本に帰国する。
6月10日、フィリピン時間の午前5時、日本の重清さんからバネッサさんに電話、「戻って来なくていいからね」。
「借金を抱えているし、ストレスがたまっているのかなあ? と思いながらも悪い胸騒ぎがした」。バネッサさんは当時を振り返る。
この日、重清さんは堆肥小屋で首を吊り自らの命を絶った。
訃報を聞きすぐに日本に戻ったバネッサさんと2人の息子は、現在、伊達市の借り上げ住宅で暮らす。貯金を取り崩しながらの生活だが、蓄えは間もなく底を突く。途方に暮れる日々だ。
東電を訪れたバネッサさんと2人の息子は、本店1階の応接室に通された。東電側は補償相談室の向山稔浩副室長ら4人が対応した。
「どうやって子供を育ててよいのか分からない。私の夢も子供の夢も全部原発(事故)で奪われた…」。バネッサさんはハンカチで涙を拭いながら、申し入れ書を向山副室長に手渡した。
「亡くなられた菅野重清様に心からお悔やみを申しあげます。福島原発事故によりご迷惑、ご負担、ご心労をおかけしまして申しわけございません。申し入れを受けて真摯に対応させてもらいます」。向山副室長は判で押したようなセリフで答えた。
メディアはここで退出となった。バネッサさんは東電に「子どもたちのために助けてほしい、と伝えた」という。「東電に対する憎しみは?」筆者が問うと「(東電には)怒っていますが、子どものことが重要です」と答えた。
日本に住み続けたいというバネッサさんだが、「原発が危ないから福島には住みたくない。子どもたちの健康のために西の方に住みたい」。
菅野さんのケースは氷山の一角に過ぎない。おびただしい数の人々が原発事故により人生を暗転させられている。損害賠償は遅々として進まない。にもかかわらず政府もマスコミも福島の惨劇などなかったかのように新しい話題作りに余念がない。
《文・田中龍作 / 諏訪都》