今回の沖縄取材行のきっかけは、元学校教員の小橋川共行氏(70歳)からの手紙だった。「米軍ヘリが沖縄国際大学に墜落した事故から9周年の記念集会を取材に来てほしい」というのが直接の誘い文句だった。
筆者は氏の真意がもっと深い所にあることを知っていたので、沖縄に向かった。小橋川氏の反基地闘争の原点は、復帰前の1959年に石川市(現うるま市・石川)の宮森小学校に米軍のジェット戦闘機が墜落した事故だ。17人が死亡、210人が負傷する大惨事だった。
復帰後も米軍機は43回(石川・宮森六三〇会編~沖縄県知事公室基地対策課まとめに基づく)墜落事故を起こしている。
小橋川氏は「宮森小学校・墜落事故」の時、高校2年生だった。現在も石川に住む。氏にとって米軍機墜落は忌まわしい思い出以外の何ものでもない。43回の事故すべてを諳(そら)で言えるほどだ。
墜落の危険性が高いオスプレイの沖縄配備は、とても認められるものではない。オスプレイの配備が決まった昨年8月、小橋川氏はハンストを決行した。
実際に配備され、さらには追加配備も決まった今年は、8月2日からハンストに入っていた。宜野座村の米軍ヘリ墜落事故は、ハンスト突入から3日目に起きたのである。
言葉も出ないほど無念で、全身の血が逆流するほど怒りがこみ上げたに違いない。一年ぶりに再会した小橋川氏はさらにやせ細っていた。
沖縄国際大学に米軍ヘリが墜落した時のもようを生々しく語ってくれたのは、宜野湾市在住の島袋聡子さん(看護師・29歳)だった。事故が起きた8月13日に、実家のすぐ近くとはいえ沖国大まで来てもらい、当時のもようを再現してもらった。
数時間後、拙稿を読んだ島袋さんから電話がかかってきた。「9年間、胸につかえていたのがスッキリとした」と明るい声で話した。「沖縄のことを取り上げてくれて有難う」とのDMも届いた。
ちょうど一年前のハンスト取材が筆者と小橋川氏との出会いだった。「こんなにじっくり私の話を聞いてくれた(本土の)記者さんは初めてさあ」。本土のメディアが沖縄の痛みにまともに向き合おうとしないことを憤っているのだろうか。
「氏の気持ちを裏切らないようにしなくては…」との思いを強くした沖縄取材行だった。