2018年のきょう8月8日、沖縄県の翁長雄志知事が膵臓ガンで亡くなった。
それからほぼ3ヶ月、田中は沖縄に張りつく格好になった。翁長氏死去を受けての沖縄県知事選挙(9月)、任期満了に伴う那覇市長選挙(10月)を取材するためだった。
自公は早い段階で前宜野湾市長の佐喜眞アツシ氏を知事候補に決めていた。
オール沖縄の候補が、玉城デニー衆院議員(当時・自由党幹事長)に決まるまでは、紆余曲折があった。
自由党の記者会見に毎回出席していた田中は、玉城デニー幹事長の携帯電話番号を登録していた。
候補者の一人に列せられているデニーさんが、電話に出るはずはないと諦めていた。ところが、ダメ元で掛けたところ出た。
デニーさんはまだ出馬を決めかねていた。沖縄財界の重鎮である呉屋守正氏の名前が出ていた頃でもあった。
地元紙に「玉城氏出馬へ」の見出しが躍るようになってもデニーさんは決断していなかった。
田中は単独インタビューを申し込んだ。またもやダメ元だったが、デニーさんは応じてくれた。有力な地元2紙でさえ渦中の人物の単独インタビューは、なし得ていなかった。
「選挙は川上(小さい所)から」。師である小沢さんの薫陶が生きていたのだろうか。
県知事選挙に出れば衆院議員は自動失職となる。だが、デニーさんは「出なくても衆院議員を辞めなくてはいけなくなるだろう」と話した。県民の期待はそこまで膨らんでいたのだ。
デニーさんは結局、民意を受け止める形で立候補を正式に表明した。単独インタビューから9日後のことだった。
立法(国会)、行政、司法。すべてを安倍政権が握るなか、唯一楯を突ける勢力がオール沖縄だ。翁長知事はその象徴だった。
県知事選挙で後継者のデニー候補が破れるようなことにでもなれば、安倍独裁は完成の域に達する。デニ―さんは最後の砦とも言えた。
田中は破産も覚悟でデニー候補の選挙を最後まで見届けねばと思った。
選挙は最終的には学会員の大量離反でデニ-候補が地滑り的に勝利した。
デニー知事は今、県議会の包囲に苦しみながらも、安倍政権の暴政と闘っている。
「デニー君はいいなあ」。翁長知事が息を引き取る数時間前に言った遺言が、後継の決め手となった。あれから2年が経った。
~終わり~