開戦から50日目、4月16日。
ガシャ・ガシャ・ガシャ・・・車両がボロデャンカに差し掛かるとウクライナ兵たちはマガジン(弾倉)をカラシニコフAK47に装填し始めた。金属音が車内に響く。前回(4月5日)訪れた時のことだ。
ロシア軍が撤退して4日しか経っていなかった。ウクライナ軍兵士たちにとっては、まだ生々しい戦場だったのだ。
ロシア軍による破壊と殺戮と略奪の原点とも言えるボロデャンカ。レスキュー隊による救出作業が始まったのは、この翌日(4月6日)からである。
16日、私は再びボロデャンカを訪れた。100人以上が生き埋めになっているとの情報が絶えなかったからだ。
砲撃で破壊された中高層アパートは無残な姿を晒したままだった。パワーショベルが唸りをあげて瓦礫を撤去していた。
1日250人のレスキュー隊員が出て救出作業にあたった。海外からも4か国以上から消防士が駆け付けた。
ペトロ・ステパノビッチ隊長によると、この日までに40人の遺体を収容し、200人を地下から救出した。あくまでも中高層アパート8棟についての数字だ。一部の報道にあった生き埋めは確認されていないようだ。
バシルさん(67歳)はロシア軍が去った翌日から毎日、瓦礫の山となったアパート跡に通い続けている。
息子のアンドレイさん(43歳)の遺体が瓦礫の下にあるからだ。アパートは3月2日にロシア軍の爆撃にあった。息子は1階に住んでいた、という。
「ロシア兵は人間じゃない。ノーマルな人間だったら、こんなことできるはずがない。軍の施設でもなく民間のアパートじゃないか」。バシルさんは憤った。
私が日本人ジャーナリストだと分かると「ボロデャンカはウクライナの広島・長崎だ」と念じるように言った。
~終わり~
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