「イスラエルはもうナチスを非難できない」。世界中を慄然とさせた大規模虐殺事件が1982年、レバノンのパレスチナ難民キャンプで起きた。
イスラエル軍の占領下、イスラエルと気脈を通じていたレバノンのキリスト教民兵がパレスチナ難民キャンプに押し入り、一帯を血の海と化したのである。
直接手を下したのはキリスト教民兵だが、首謀者はイスラエルのシャロン国防相(当時)というのが定説だ。
難民キャンプの地名にちなんで「サブラとシャティーラの大虐殺」と呼ばれる。
今なお8,400人(※)のパレスチナ難民が暮らすベイルート郊外のサブラ地区と「シャティーラ難民キャンプ」を訪ねた。サブラとシャティーラとは地名である。(※UNRWA調べ=国連パレスチナ難民救済事業機関)
迷路のような狭い路地の両脇に住宅がひしめく。蜘蛛の糸のように張り巡らされた電線は盗電のため引いたものだろうか。水道水は舌がしびれるほど塩辛い。
からくも虐殺を逃れたパレスチナ難民(男性)にキャンプの寄合所で話を聞いた。男性はモハンマド・スルーリさん(写真・1962年生まれ)。当時20歳だった。
たまたま屋根の上に登っていたモハンマドさんは、数百人の兵士と戦車がキャンプに入って来るのを見た。
最初はイスラエル軍かと思った、という。キリスト教民兵たちは「ファック」などと口汚い言葉を吐き散らしながら、ナイフでパレスチナ難民を手当たりしだいに切りつけ始めた。
5分後に発砲が始まった。モハンマドさんは1階に駆け降り、家族に虐殺が起きていることを知らせた。
家族はそれを信じなかった。このため逃げ遅れた。モハンマドさんはキャンプから逃げ出した。
重症を負いながらも生き残った母親が惨状を聞かせてくれた ―
押し入ってきたキリスト教民兵が銃を向けながら「カネを出せ」と脅すので、父親は有り金すべてを差し出した。
民兵はカネを受け取ると、家族に向かって「壁に並べ」と言い銃を乱射した。父親、兄弟、姉妹の計5人が射殺された。
母親は撃たれて倒れたため、キリスト教民兵は死んだものと思ったようだ。
木曜日夕方(朝という説もあり)に始まった虐殺が終わったのは土曜日の昼だった。
モハンマドさんはキャンプに帰った。路地、住宅の中・・・至る所に遺体が散乱していた。多くは首を切り落とされていた。
棒の先端にくくり付けられていたのは友人の頭部だった。赤ん坊が乳を吸ったままの状態で母親と共に撃ち殺されていた。即死だったのだろう。
犠牲者の数は800人とも数千人とも言われている。難民キャンプが血の海になったことは間違いないようだ。
モハンマドさんは夥しい数の同胞が犠牲となっている最近の中東情勢についてもイスラエルの影を見ていた。
「まず占領してから虐殺する。ISとイスラエルは同じだ」。
淡々と語っていたモハンマドさんが、この時ばかりは語気を強めた。
~終わり~