開戦から16日目、3月11日。
田中はロシア側が設定した人道回廊のひとつキエフ郊外のイルピンを訪れた。
イルピンはベラルーシから南下してきたロシア軍の戦車部隊と、ここを防衛線とするウクライナ軍との間で激しい戦闘が続く。開戦翌日の2月25日からである。
住民たちが脱出しようにも容易に脱出できない戦闘状態が10日余りも続く。
「ドン、ドン」。くぐもった砲声は明らかに戦車からだ。間断なく響いた。
田中はウクライナ軍の陣地にいる。砲声は対面する方角からだ。田中の頭を飛び越えて後ろで着弾音がすることさえあった。
常識で考えれば、どちらが砲撃しているのかは火を見るより明らかだ。
中層のソ連型アパートが林立する一帯からは黒煙が立ち上っている。
住民は10日あまりアパートの地下にこもった。食料も水も尽き、イチかバチかで脱出してくるのである。
イルピンからの脱出に際して、住民はパスポートあるいは写真付きの住民票を軍に提示しなければならない。ロシア側のスパイでないことを証明するためである。
自分が長年暮らしてきた街を泣く泣く退避するのに、こんな屈辱的なチェックを受けなければならないのだ。
軍やボランティアから救出された初老の女性は、声を震わせ涙を流しながら「スパーシーボ(有難う)」を繰り返した。
ロシアが設定した人道回廊のスタート時間は、キエフ時間午前9時。田中がイルピンに到着したのは午前11時過ぎだった。
停戦も何もあったものじゃないことは上述した通りだ。
住民退避のための人道回廊は、マリウポリ同様ロシアのマヤカシだった。夥しい犠牲者が出ることだろう。
前線の兵士は地面に1000と数字を書き「まだ1千人は残っている」と明かした。
脱出できずにいるのは「オールド(老人)、ディスエイブルド(障がい者)」と付け加えた。
~終わり~
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