「風邪ひいたみたい」。女房がさも嫌そうな調子で言った。2日夕方のことだ。
喘息持ちの彼女は風邪をひくと激しく咳き込むようになる。案の定、翌3日朝から咳き込むようになった。
いつもと違うのは、瞬間的に呼吸が止まるような咳き込み方をするようになっていたことだ。
それでも能天気な田中は「いつもの風邪」くらいに思っていた。
6日からは食べ物がノドを通らなくなった。だが女房はそれを言わなかったので、田中はその時点では異変に気付いていなかった。
食べることができないので立ち上がるエネルギーもない。
トイレに行けなくなった女房は、大小便を垂れ流すようになった。女房はまたしても言わなかった。余計な心配をかけたくなかったのだろう。田中が知ったのは9日になってからだ。
「どこかに入院させてもらえよ」と勧めたが、女房は「入院(させる、させない)は病院が決めるんだよ」と言って受け付なかった。
確かにその通りだ。かつて喘息で呼吸困難になり救急搬送された時、田中と女房は「入院させてくれ」と病院側に懇願したが拒否された。
今度も同じだろうと思い、入院は諦めることにした。
10日早朝になると女房は息も絶え絶えになった。田中はこの時点で女房が大小便を垂れ流していることを初めて知った。
友人のT医師に窮状を伝えるDMを入れた。T医師は早朝にもかかわらず「肺炎を起こしている。コロナかもしれないので、すぐに救急車を呼んだ方がいい」と返事をくれた。
ワラにもすがる思いで119番を入れると、数分のちに救急車は来た。田中は同乗した。救急隊は引き受け先の病院を見つけるのに懸命だった。
引き受け先の病院が決まるまで2時間かかった、などという話をよく耳にしたものだ。
女房の場合、20分位だっただろうか。救急隊員は「●●病院に決まりました」と告げた。
田中は一瞬身体が硬直した。●●病院は高額なことで有名だからだ。だが、一秒でも早く女房を診てもらいたい一心なので「はい。お願いします」と答えた。
女房は処置室に運ばれた。田中は待合室で2時間ほど待っただろうか。
処置室に呼ばれて行くと担当医師が「コロナ感染していて、肺に影が広がっている(肺炎を表す)。重篤具合で言えば中程度」と説明した。
女房はすっかり息を吹き返していた。点滴が効いたのだろう。取りあえず一命は取り留めたのだ。
医師は「ウチは全室個室でして1日、●万円かかります。帰宅して頂いても他の病院に移って頂いても結構です」とまったく抑揚のない口調で言った。
引き受けてくれて高額ではない病院を見つけたとしても、移動するためには点滴の針を抜かなければならない。
辛うじて命拾いした女房をまた危険にさらさなければならないのだ。
女房の命には換えられないので、破産も覚悟で田中は女房を●●病院に入院させることとした。
会計窓口に行くと事務員が「保証金として20万円、現金かクレジットカードでお支払い願います」と機械的な調子で入院患者の家族に告げていた。
身なりからして富裕層とは思えない家族が「今はありません」と答えると、事務員は「では14日までにお願いします」とこれまた事務的に告げるのだった。
田中同様、救急搬送先の病院を選べなかったのだろう。
田中は翌日払うこととした。金策のため一日でも先に延ばしたかったのだ。
入院費用を考えると絶望的な思いに駆られる。だが女房は生きているのだ。それだけで救われた気持ちになる。幸せだ。
T医師の勧めがなかったら、女房が帰らぬ人となっていたことは確かだ。感謝しても感謝しきれない。
~終わり~
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田中は、入院した女房の身の回りの世話と家事の両方を、こなさねばならず、取材執筆にも支障を来す状態となっております。
何とぞご海容のほど、よろしくお願い申し上げます。