開戦から75日目、5月11日。
2度にわたって世界を震撼させたチェルノブイリ原発を訪れた。プレスツアーではない。
「FUKUSHIMAを体験した日本のジャーナリストとしてぜひ取材したい」と当局に申し入れていたのである。
開戦初日の2月24日、ベラルーシ国境からロシア軍の陸上部隊が、大挙チェルノブイリ原発に押し寄せてきた。直線距離にして13㎞の近さに、かつて大事故を起こし、いまだ放射能を吐き続ける原子力発電所があるのだ。格好の餌食である。
国際社会を脅しあげるにはもってこいの施設にロシア軍は押し入り、発電所のスタッフ300人以上を監禁状態に置いたのである。
発電所関係者によるとロシア軍はコントロールパネルなどに触ることはなかった。第2の事故が起きることはなかった。
ロシア軍は4月1日に撤退するまで36日にわたって発電所とチェルノブイリ市を支配した。
発電所職員と住民は全員解放されたが、発電所を守っていたウクライナ軍兵士と警察官150人はベラルーシに連行された。その後の安否は杳としてつかめない。
ロシア軍は発電所を挟む形で、北に2㎞の地点に塹壕を掘り、南に12㎞の地点に基地を設けた。
塹壕を掘った森は、1986年の事故で放射能が降り注いだため35年以上経つ今も木々は赤く枯れたままだ。
ロシア兵は高濃度の放射能を浴び、ベラルーシの病院に搬送された。人数は定かではないが、相当数の死亡が伝えられている。
発電所の南に位置するセメント工場はロシア軍の基地と化していた。
未使用のミサイル12発も捨て置かれていた。数十の空き箱が無造作に積まれていた。いずれも目視できた分のみだ。
戦車用の塹壕が2穴。キャタピラーの跡もあり、戦車が出入りしていたことは疑いようがない。
簡素だがベッドルームがしつらえられていた。果てはサウナまであった。
ロシア軍の戦術戦略は何だったのか。『城を枕に討ち死に』というが『チェルノブイリ原発を枕に討ち死に』するつもりだったのか。
それにしては理解できない。制服やブーツばかりでなく高額なミサイルまで基地に捨てて潰走したのだから。
~終わり~
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