開戦から40日目、4月6日。
マスグレーブが見つかったとされるキーウ郊外のブチャ。市街地に入る交差点にさしかかった時、同行の地元ジャーナリストが怒鳴るような声で言った。
「ミスタータナカ。ここの写真を撮っておけ」。
地元ジャーナリストが指さした方を見て息を呑んだ。道路は一望、ロシア軍戦車の残骸なのである。残骸がどこで終わっているのかが、分からないほどだ。
ロシア軍の戦車部隊が街の入り口で、ウクライナ軍により一網打尽にされたことを示す。
戦車部隊が街中をキャタピラーで蹂躙しなかった代わりに別の悲劇が生まれた。
現場にはパラシュートがあった。ロシア軍の空挺部隊が降り立ったのだ。後続の特殊部隊などと共に市街地に入り、殺戮と略奪の限りを尽くしたのである。
マスグレーブが見つかったとされる教会への道すがら、住民にインタビューした。
ヴィクトルさん(50代男性)の話はこうだ―
「ロシア兵が隣の家に押し入ってきた。家人を含め計4人撃ち殺した。食料や金目の物は全部略奪して行った。女性のパンティーまで持って行った」。
ヴィクトルさんは自宅の窓から凶行の現場を見ていた。息を潜めながら。
「ロシア兵は家の中で撃ち殺した遺体の埋葬を5日間許さなかった。ロシア兵たちがその場を離れてやっと埋葬できた」。
4日の「ゼレンスキー大統領同行取材」(日本の新聞の5日付朝刊1面トップを飾ったのは、この時の写真=外国通信社からの配信=だ)、5日の「メディアツアー」では、こんな取材はできない。ジリジリしながらも待った甲斐はあった。
惨劇の現場となった聖アンドリュー教会を訪れると、アンドレイ神父がいた。神父は一部始終を語った(太字が神父談)―
ロシア軍は街に入ってくると市民を撃ち殺し始めた。2月27日のことだ。
歩道上で携帯電話で通話していた女性の頭を撃った。乗用車ごと撃って車中の市民を殺した。
約300人の遺体が路上に2週間放置された。(300人のマスグレーブと報道されたのはこのことか)
遺体は犬に嚙まれたり、爆破されたりしたため、(地元)政府のレスキュー隊が遺体を回収した。
遺体は安置所に持って行ったが、変電所が破壊されて停電していて、フリーザーは使えなかった。
遺体は安置所から50mと離れていないここ(聖アンドリュー教会)で埋葬されることになった。遺体は約200体あった。
「神父自らの手でマスグレイブを掘ったのか?」と田中は聞いた。
そうだ。私とボランティアで堀った。
「いつ堀ったのか?」
3月10日。遺体が安置所から回ってきたその日に、神父とボランティアたちはロシア兵から無残に殺された大量の住民を埋葬したのである。
レスキュー隊もボランティアたちも怯えていた。ロシア軍に見つかったら(遺体の埋葬を)許してくれないだろう、と。
この頃はロシア軍がまだ駐留していた時期である。
職業柄「どんな気持ちでマスグレーブを掘ったのか」と聞くと―
神父は「答えたくない」。聖職者として当然の答えだった。
アンドレイ神父の話は具体的で詳細にわたる。地元住民の話とも符合する。
神父は取材拒否をしない。各国のジャーナリストによるインタビューと現場取材で、真実が世界に伝えられることだろう。
~終わり~
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皆様のお力で、田中龍作は日本の新聞テレビが報道しない、ウクライナの実情を、伝えることができています。
カードをこすりまくっての現地取材です。
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