我が父はシベリア抑留の生き残り組だ。満州で終戦を迎え、そのまま移送されたのである。
強制労働と飢えと疾病などにより10万を超す戦友が凍土に果てた。「自分の命は拾ったようなもの」。それが父の口癖だった。
将兵ばかりではない。満州在住の日本人非戦闘員18万人余が命を落とした。略奪、暴行に遭いながら内地に逃げ延びた日本人は数知れない。
1945年(昭和20年)8月9日午前1時前、ソ連の大部隊が大地を轟かせながら満州に攻め込んで来た。
「日本にしてみれば寝耳に水」・・・と言えば、あまりに悲喜劇である。この年の2月、スターリンはヤルタ会談において日本侵攻を約していたのだから。
戦況が悪化した日本は、それも知らず春頃から連合国との和平仲介をソ連に依頼する。
8月8日の深夜、駐ソ大使の佐藤尚武は、クレムリンに外相のモロトフを訪ねた。和平仲介の返答を聞くためだ。
ところがモロトフ外相の返事は日本への宣戦布告だった。それから数時間も経たぬうちにソ連は満州に雪崩込んだのである。
日本兵のシベリア抑留と在満州邦人の悲惨は、ふつうに国際情勢が読めていれば起きなかった。
分不相応な「満州国」の領土を維持するために日本は無理に無理を重ねた。国家予算の半分近くを注ぎ込んだという説もある。
「満州国」=「オリンピック」。「ソ連侵攻」=「コロナ感染拡大」。と置き換えると分かりやすい。
国民は満足に食えなくなり、子供食堂ばかりか大人食堂まで出現するありさまだ。オリンピックなんぞに予算を回す余裕はない。日本にオリンピックは不相応なのである。
満鉄副総裁の松岡洋右(後に外相)が「満蒙は日本の生命線」と言ったというが、「オリンピック命」の菅政権と同じである。
大日本帝国は「ソ連の侵攻はない」と決めてかかっていた。何の根拠もなかった。いや、「ソ連の侵攻」はないことにしなければならなかった。
満州から兵力25万(12個師団)を割いて南方展開していた作戦構図が崩れるからだ。
オリンピックを開催するために、コロナの感染拡大はないことにしなければならない。
オリンピックを成功させて高揚感のうちに秋の総選挙に勝利する。五輪利権のため今さら中止はできない。菅政権を支える構図が崩れるからだ。
世界の主要メディア、感染学の権威が五輪開催の危険性を説いても聞く耳を持たない。
国際情勢がまったく読めていなかった76年前と全く同じである。
それでもオリンピックを強行開催すれば、日本は、今度は何を失うのだろうか。想像もつかない。
~終わり~
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