福島の人々を不幸のどん底に叩き込んだ原発事故から2年が経った。まだ2年しか経っていないというべきなのだが、政府は再稼働に向けて突き進み、マスコミは復興を喧伝する。
「3・11をなかったことにしてはならない」。原発事故被災者や支援者がきょう、福島市で集会を開き県庁などにデモをかけた。(主催:3・11反原発福島行動実行委員会)
「復興ビジネス、復興キャンペーンばかりがまかり通る。(福島を取り戻すための)道筋を私たちがつけないと子どもの将来はない」。実行委事務局長の椎名千恵子さんは、集会とデモの意義を語った。
福島県教育会館ホールで開かれた集会には、大間原発建設予定地のど真ん中に立つ「あさこはうす」の小笠原厚子さんらが駆け付け、福島の脱原発運動にエールを送った。
小笠原さんは、電力会社の社員が「事故は起きません、安全です」と説明に来た時に母親が言い返した言葉を紹介した。「一度事故が起きたらもう(元に)戻らねえ。海も土地も戻らねえんだ。おめえらは保証してくれるのか?」
会場からは割れるような拍手が起きた。福島で実際起きていることを小笠原さんの母が予言していたからだ。
集会・デモ呼びかけ人の会田恵さんは会場の聴衆に次のように訴えた。「人間は弱い生き物です。札束でピシャピシャと頬を叩かれているうちに54基も原発ができてしまった。原発は人間の負の遺産でしかない。『ならぬものは ならぬ のです』(NHK大河ドラマ・八重の桜 キャッチフレーズ)と政府につきつけたい」。
原発事故は静かに生きてきた人々の人生を一変させた。福島市内の主婦(68歳)は事故直後、24μSv/hの所で水汲みの順番待ちをしていた。彼女が食事や放射能について書き留めたノートは、この2年間で10冊以上になった。
「事故後初めての除染が近く来る。除染と言っても土をはいで袋につめて庭に穴を掘って埋めるだけ。いわきに住む孫には“あまりこっちに来るな”と言ってある」。
孫と会うささやかな幸せさえも奪った原発。「もう2年間原発なくてもやってこれてるじゃないか。このまま生活のレベルを下げても原発はない方がいい」。彼女は切々と語った。
憤りを露わにする人もいる。「希望の牧場」の吉沢正巳さんだ―
「浪江、双葉、大熊は町の意味を失った。人々は精神的に絶望状態。先が見えないから。仮設に2年も住んで、あと2年もいたら倒れてしまう。原発事故がひと度起きたら棄民される。見舞い金プラスアルファで国も東電も終わりにしたいのだ。逆らう奴は面倒見たくないというのが本音だ」。
政府は利権のためにあるような除染をむやみやたらと続け、住民の帰還を急がせる。健康な営みが取り戻せるかは二の次だ。
土地と暮らしを奪われた福島県の避難者は、2年経った今も15万4,157人(復興庁調べ・2月7日現在)にのぼる。
《文・田中龍作 / 諏訪都》