冤罪がたびたび指摘される痴漢逮捕が後を絶ちません。実態を知って頂くために昨年9月に弊サイトに掲載した記事をもう一度お伝えします。
パトカーが到着し、6~7人の警察官が駅のホームに着いた。私服警察官が「事情を聞かせろ」といきなり迫った。「なぜ?」と矢野さん。ホーム上で押し問答が約20分間続いた。
平行線が続いたところで私服が「任意同行で事情を聞かせて下さい」とダメを押し、矢野さんはパトカーに乗せられ成城警察署に連行された。時計は12時を回っていた。
署に着くと取り調べ室に。警察官が矢野さんの肩を小突き「入れ」。取り調べ室は広さ4畳半ほどだった。本田と名乗る刑事(階級は巡査)が「お前はもう逮捕されてるんだ」と告げた。
矢野さんは「じゃあ逮捕状とれ」と言い返したが、逮捕状執行の宣言もないまま手錠をはめられた。「やっただろ」「やってない」。本田刑事と矢野さんとの攻防が4時間ほどあった。午前5時、矢野さんは留置場に移された。夜も白みはじめていた。
「救援センター」の弁護士に連絡がついたのは午前9時30分。弁護士が矢野さんと接見できたのは午後4時だった。矢野さんが成城署に連行されて16時間が過ぎていた。
弁護士は「何日か留置されるだろう。全くの黙秘でなく事実だけ話して下さい」と矢野さんにアドバイスした。
翌17日、矢野さんは東京地検に送られた。取り調べたのは山本剛検事。山本検事は「警察調書の通りですか?」と聴いてきた。「私は何もしていませんので、すぐに釈放して下さい」、矢野さんは即座に答えた。
検事:「一応、被害届が出ていますので、(裁判所に)拘留申請をします。もし釈放されても呼び出しには応じてくれますか?(それにしても)あなたの不注意だった」。
矢野さん:「じゃあ、あなたは車内でどうしてるんですか?」。
検事:「僕はリュックサックをしょって必ず両手を上にあげている」。
漫画のようなやりとりだった。夕方、成城署に戻った。
翌18日、拘留尋問のため東京地裁へ。
裁判官が「検事調書の通りでよろしいですか?」と聴いてきた。調書は「容疑否認」となっていたので、矢野さんは「大体その通りですが、すぐに釈放して下さい」と答えた。
裁判官が矢野さんに次のように要請した。「誓約書に署名して下さい。『事件が終わるまで京王線には乗らない。裁判所、検察、警察から呼び出しがあったら応じる』」。
裁判官は続けた。「署名してくれれば検事からの拘留請求を却下します」。裁判所が拘留を認めなければ、検察は容疑者の身柄を拘束できない。
矢野さんは署名した。午後3時過ぎ、弁護士が裁判官に掛け合った。釈放が決定する。午後9時過ぎ、矢野さんは晴れて自由の身となった。成城警察署に連行されて以来、3泊4日の留置場暮らしだった。
7月末には不起訴が決まった。6月18日に釈放されて以来、警察、検察、裁判所からの呼び出しはなかった。身に覚えのない「チカン冤罪事件」の幕切れだ。
「脱原発デモ」「PC監視法案反対の座り込み」「記者クラブ解体デモ」……リーダーの矢野さんは、体制側にとって目障りな存在だ。京王線の電車の中でチカン冤罪に嵌めようとしたのは公安警察なのか。それとも単なる示談金目当てのグループだったのか。
拘留尋問にあたった山本検事の言葉が、今も矢野さんの頭に残っている。「どうして女性はあなたの手をつかんだと思いますか?最初からあなたを犯人に仕立てあげようとしたのか、(真犯人と)間違ってあなたの手を握った可能性もあります」。
拙稿の前編でも述べたが、女性が声をあげると数秒もしないうちに男4人と女1人が矢野さんを取り囲んだ。痴漢冤罪に嵌めるのに不可欠な実行グループの連携プレーだ。
警察に「認めたら帰してやるから」とそそのかされて、認めてしまったらお終いだ。会社員や公務員は表沙汰にしたくない一心で、つい認めてしまう。矢野さんは自営業者だったので、最後まで突っぱねることができた。
チカン冤罪は、誰もが嵌められかねない。身に覚えがなかったら断固として否認を続けることである。
嵌められないためにはどうするべきか。先ず、酒を飲んだら電車に乗らないことだ。動きが鈍くなるし警戒感も薄れる。嵌めやすくなるのである。もうひとつ山本検事が励行しているように、車内では必ず両手を上げることだ。
事件以降、矢野さんは酒を飲んだ時はサウナに泊まるか、タクシーで帰宅することにしている。
「飲んだら乗るな。乗るなら飲むな」である。≪終わり≫