開戦から71日目、5月7日。
キーウから東に91㎞、ロシア国境から西に314㎞のノババサニュ村。
開戦から4日目の2月27日のことだった。修理中の橋を警備していたガードマンは腰を抜かすほど驚いた。
ロシア軍の戦車や自走砲が轟轟と音を響かせながら目の前を通過していく。橋は壊れなかったが、最後尾が行き過ぎるのに6時間かかった。
この時点でウクライナ軍は迎撃態勢に入っていないことが分かる。
ウクライナ軍はロシア軍戦車をキーウ近くまで引き付けておいて迎撃したのである。露軍戦車の残骸がキーウに近くなるほど多いことでも明らかだ。
ウクライナ軍が採ったのは「縦深陣地」という布陣だった。横一線に拡がってガードするのではなく、縦に深く矩形の陣地を敷いたのである。そこにロシア軍戦車を誘い込み次々と狙い撃ちして行った。
雪が融けて畑や林はぬかるみ始めており、ロシア軍の車両はアスファルト道路を通るしかなかった。余計に狙い撃ちされやすくなった。「縦深陣地」は大軍で攻めてくる相手を倒すのに適した戦法だ。
キーウ近くまで引き付けられ、ロシア軍の兵站線は長くなった。兵站線は長くなるほど補給が困難になる。
食料に事欠いた兵士たちが略奪に走るのは理の当然だった。
南下してキーウを目指すロシア軍が略奪と殺戮を恣にしたペボダ村で老婆がロシア軍兵士に「何をしにウクライナに来たのか?」と尋ねた。
二十歳になるかならないか位の若い兵士は「トレーニングと言われて来た」と答えたという。
傷ひとつないロシア軍戦車を時々見かける。ロシア兵は戦わずして投降したのだ。戦車を一両いくらで売って逃げたとする情報もある。
戦跡からはロシアの兵隊さんたちに戦争を戦う士気がないことが伺える。愚かな戦争がここに集約されている。
太平洋戦争で補給路を絶たれた旧日本軍は、外地で略奪を繰り広げた。現地の人々を殺して食料を奪ったりした。
日本を戦争に駆り立てたのは米国であるとの説がある。史実上そうであったとしても、旧日本軍がアジアの各地で犯した殺戮と略奪の罪は消えるものではない。
当時の日本軍とプーチンのロシア軍は重なる。
~終わり~
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