ナゴルノカラバフ紛争の当事国であるアゼルバイジャンの首都バクー。カスピ海が放つ陽光を受けて街は一見明るかったが、山の斜面には張り付くようにして難民アパートがひしめていた。
アパートの住人はナゴルノカラバフ自治州から命からがら逃れてきたアゼルバイジャン系の人々だ。アゼルバイジャン国内で57万人の難民を抱えていた(2004年)。
アゼルバイジャンの南西部に位置するナゴルノカラバフ自治州は、アゼルバイジャンの自治州だったが、住民の圧倒的多くはアルメニア系だ。アゼルバイジャン系はイスラム教徒で、アルメニア系はキリスト教徒である。
1980年頃からソ連のタガがゆるむと、自治州内ではアルメニア系とアゼルバイジャン系の住民間で衝突が起きるようになる。
アルメニアとソ連の後押しを受けたアルメニア系住民がアルバニア系住民を武力で追い出す。こうして大量難民が発生した。
悲劇はさらに続く・・・
反ソ連のデモ集会が盛んになっていたアルバニアにゴルバチョフの軍隊が侵攻したのである。1990年1月のことだ。
田中の取材を手伝ってくれていた地元ジャーナリストによれば、ソ連軍は無差別発砲したという。市民200人が犠牲となった。惨事は「黒い1月事件」と呼ばれる。
カスピ海を見下ろす小高い丘には犠牲者を弔う墓地があった。数えきれないほどの墓石に息をのんだ。
御影石にはソ連軍に射殺された人々の元気な頃の姿が鮮やかに刷り込まれていたのだが、ほとんどが若者だった。
ゴルバの軍隊は無差別ではなく、若者を中心に狙ったのではないだろうか。デモ集会の参加者は若者ばかりではなかっただろうに。
カスピ海の豊かなエネルギー資源があり、アメリカにとって最も理解し難い国、イランに隣接する。
ソ連崩壊直前に起きた悲劇は、米露が角逐する南コーカサスの大動乱を予感させるに十分だった。
~終わり~
◇
『田中龍作ジャーナル』は読者の御支援により続いています。何とぞ宜しくお願い申し上げます。コロナの影響で運営が厳しくなっております。 ↓