チェルノブイリ原発から30キロ圏内(10キロ圏内は含まない)の立ち入り禁止ゾーン。事故から26年たった現在も、このエリアに入ることは厳しく制限される。事前登録が必要でパスポートもチェックされる。退出の際は、全身の放射能チェックを行い、高い数値が出た場合は、服を洗濯するケースもある。
事故直後、放射能の影響で木々が枯れ、「赤い森」が出来た。一度枯れた木々は、ほとんどがもとには戻らなかった。取材車から見える森には、赤い木々を切り倒した後に植えられた若木が、生え揃っていた。
立ち入り禁止ゾーンにはおよそ100人の人々が暮らしている。ウクライナ語でサマショール「自ら帰って来た人たち」と呼ばれる。一般的に知られている「わがままな人たち」という訳は間違いだ、とベテランガイドは説明した。
しかし当時、政府から住居を支給されたにも拘わらず30キロ圏内に戻って来たことに対して、メディアの批判があり、自分の家を持っていない人々の嫉妬を買った。そのような背景から「わがまま」と言われてしまったのかもしれない。
チェルノブイリ原発から西に20キロほどの所、すっかり色づいた広葉樹と針葉樹が入り混じる地帯に廃屋が点在する。そこにバレンティナさん(74歳・女性)の小さな家があった。まるで山小屋のようだ。
薪を燃やした香りが辺りに漂っていた。私たちが自宅に着くと、前掛けをしたバレンティナさんは少し驚いた表情で出迎えてくれた。
「掃除中だったのよ。家が汚いけど、悪く思わないでちょうだい」。通された家の中からは、質素な生活が伺えた。調理は薪を使ったオーブン。小柄な猫2匹は共に目の周りが汚れていた。
辺りは鬱蒼とした森だ。電気は通っているが、夜は漆黒の闇と恐ろしいほどの静寂が包むのだろう。
「どうしてここに戻ってきたのですか?」。
「原発事故が起きた時、すぐにキエフに避難した。でも、キエフは住みにくくて、血圧が200まで上がってしまった。医者から家に帰る事を勧められたんだよ」。バレンティナさんは、わずか一週間の避難生活で、立ち入り禁止ゾーンに戻ってきたという。
実際に、避難した事で病気になったり、亡くなったりした人が多かったことは確かだ。放射能による知識が無かった当時は、汚染地帯から来たという事でひどく差別されることもあったという。
避難先から戻った彼ら「サマショール」は、ほとんどが中高年だった。福島の広い土地で生活していた人々が、避難先の小さいマンション生活で息苦しさを訴えることが多いのと同じだ。
以前、取材でお話を伺った南相馬市から避難しているおじいさんの言葉が思い出される。「コンクリートの箱に閉じ込められている」と東京でのマンション暮らしを表現していた。
土地の物を食べ、隣人とつながり合いながら生きてきた人々にとって、都会の孤立した生活は、拷問とも言えるのだろう。年老いたバレンティナさんが、言外に語っているようでならなかった。 ~つづく~
《文・諏訪都》
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