「♪いのちを奪う原発いらない、ただちに廃炉、いますぐはいろ〜♪」。桜がほころび始めた霞ヶ関は経産省前の交差点で、益永スミコさん(88歳)は道行く人に訴えていた。首から下げたプラカードを自作の歌にのせて左右に揺らしながら「原発廃止」を呼びかける姿は、米寿とは思えないほどエネルギッシュだ。
スミコさんは、小さな体に似つかわぬ体力と精神力で、ベトナム戦争以来寒い日も暑い日も街頭に立ち、反戦を訴え続けてきた。「3・11」以後は、反原発も大事なテーマになった。
官庁街を行き交う役人やビジネスマンが、スミコさんを気に止めずに通り過ぎて行く。
「あまり、反応がないですね?」
「いいえ、沢山の人は目で合図をしてくれるんよ。特に車に一人で乗っておる人は、目や手でよく反応してくれる」。人生の酸いも甘いもかみ分けた彼女は、やはり目のつけどころが違う。
「でも、大人数でいるときは、周りに遠慮してか、なかなか意思表示をしてくれる人は少ないね。戦争の問題でも、原発の問題でも、周りとざっくばらんに話せる雰囲気を作らにゃいけんね。『戦争は人殺しだし、やめようよ。原発は命を奪うからやめようよ』と、みんなが言い合えたらいいね」。彼女は微笑みを絶やさず語るのだが、話の凄みと深さに年輪を感じずにはいられなかった。
大分県出身のスミコさんは、戦前から助産師として働いていた。とりあげた赤ちゃんは数知れない。戦後二年目くらいで産まれた子どもの中には、無脳症で産まれる子どもを見る事があったという。戦前にはなかったことだ。
「昔は研究も進んでいなかったし、それが原爆によるものか、今となっては分からない。私は触診で頭が触れない子どもを、お母さんには内緒で、お父さんと相談して産まれてすぐに窒息させて死産とさせていた。そんな経験をした産婆が沢山いた事は確かだ。今だったら生きられた命。でも、その当時は仕方がなかった」。絞り出すように語る彼女の話に、私は衝撃を受けた。インタビューを終えた後も、しばらく胸の高鳴りは収まらなかった。
「今だから言わにゃいかん。今までは言わなかったし言いたくなかった。でも、経験をした私らが言わなきゃいかん」。スミコさんが反原発を訴える出発点は、やはり戦争体験にあった。彼女は「3・11」後、原発の勉強をしながら街頭で反原発を訴え始め、戦争経験と併せて語るようになったのである。
私がスミコさんを初めて見たのは、原発事故直後、昨年3月下旬の原宿駅だった。彼女は一人で何時間も街頭に立っていた。脱原発テントによく足を運ぶ男性は、初めてスミコさんを見た時に思わず泣き出してしまったそうだ。
彼女が一貫して街頭に立つのには理由がある。関心がない人や生活に忙しくて勉強が出来ない人、お金がなくて講演会などに参加できない人など、どんな人とでも出会えるのはやはり屋外だからだ。
「通り過ぎる人の中には、話しかけてくれる人もいる。また素通りしていく人も、何かが起きた時に思い出してくれるかもしれん。だから、暑い日も雪の日も街頭に立つ。でも、辛くはないよ。無理はしないから。疲れたら休むし、気が乗らなければやらん」。スミコさんは持続する秘訣を語ってくれた。
「若い世代にメッセージはありませんか?」最後に私は聞いた。
「立ち上がりましょう。お互いが命を大切にしましょう。民主主義とは、強い人が揚げた旗についていくのではなく、一人一人が自分の旗を振らなきゃいけない」。口調は勇ましいが、スミコさんの笑顔は限りなく優しかった。
(文・諏訪 京)
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