雇用情勢の悪化で仕事と住まいを失った労働者に食事と寝所を提供した日比谷公園の派遣村から東京都や区の施設に移っていた約300人は、施設の期限が12日朝で切れたため、翌13日から都内の旅館に寝泊りすることになった。
12日夜は財団法人が運営する都内の宿泊施設に一泊した。
旅館の宿泊費用は生活保護が適用された人は扶助から出し、それ以外の人は派遣村に寄せられたカンパから出す。
派遣村入村者の食事や寝床の世話は12月31日から1月5日朝まではボランティアが手弁当で行い、5日から12日までは都や区の職員(税金)とボランティアがあたった。
派遣村村長の湯浅誠さん(NPO法人『もやい』事務局長)は、派遣切りで大量の住居喪失者を発生させた大企業の姿勢に憤る。「好景気の時は増産、増産で派遣労働者を雇っておきながら、景気が悪くなるとすぐに捨てる。そのトヨタ、キャノンが1円(1人)も出していない」。
「第2次大移動」する300人のうち大多数はまだ仕事と住まいが決まっていない。住所がないと就職は決まりづらい。かといって「住込み」は応募者が殺到し、「もう決まったよ」と断られる。年齢層が高いのも就職を難しくさせる。
やはり住所があることが基本になる。元派遣労働者(30代・男性)は「住まいが決まらないと不安です」と力なく話す。
テント(厚労省講堂)→都の体育館、区の廃校小学校→旅館という集団生活が続く。湯浅村長は「寝返りを打てば30cm先に他人の顔でストレスは溜まり放題」と住民の健康状態を気遣う。
幸い仕事とアパートが決まった元派遣労働者(40代・男性)に話を聞くことができた――
男性は12月15日に突然「きょうで仕事は終わり」と言われ、寮も3日以内の退出を命ぜられた。派遣先は静岡県内の自動車部品工場。漫画カフェなどを転々としながら派遣村にたどり着いた。
就職活動の甲斐あって、都内のファーストフード会社に正社員として就職内定した。早ければ16日から働き始める。アパートは翌17日から入居するが、敷金礼金は、派遣村からの生活保護申請→適用で得た現金で賄う。
もし派遣村が存在しなかったら男性は今頃路上生活者となっていたかもしれない。
派遣村できっかけを得て巣立っていく人がいる一方で、新たな犠牲者は後を立たない。
派遣村主催者の一人で派遣ユニオンの関根秀一郎書記長の携帯電話が11日、鳴った。派遣切りに遭った2人の男性(両者とも30代)からだった。1人は愛知県のトヨタ下請け工場を、もう一人は三菱ふそうを派遣切りされた。
2人とも1月8日から上野公園などで野宿生活を続けていた。所持金も底をつき(最終的に20~30円)、寒さにも耐えかねて区役所の夜間窓口に行ったところ、派遣村から移った労働者が宿泊する都内の施設を紹介された。
派遣ユニオンが今日明日の生活費を貸付け、生活保護申請した。2人は派遣村がなかったら凍死していた可能性もある。
法改正で「製造業への派遣禁止」をしない限り、派遣切りの悲劇は繰り返される。