開戦から64日目、4月30日。
首都から東へ100㎞のノヴィ・ビコフ村。さらに東に行けばロシア。北はベラルーシ・・・東西南北に向かう幹線道路が村で交差する。
交通の要衝は当然のごとく激戦地となった。死者、行方不明者ともに多数。最初に取ったのはロシア軍だった。ロシア軍は開戦から3日後の2月27日に村に侵攻してきた。
対するウクライナ軍は村の外から砲撃を浴びせた。
学校の校舎に密接してキャタピラーの轍があった。グロテスクな轍は校舎を取り囲んでいた。
村人によればロシア軍は学校を基地代わりに使った。シャワーもある。教室の床で身を横たえることができる。
自軍の戦車を校舎に密着させるようにして置いたのは、校舎を弾除けにするためだ。
ウクライナ軍はウクライナの学校を撃ちにくいだろう。撃てば撃ったでネガキャンの材料になる・・・ロシア軍の目論見はあたった。実際、校舎は激戦地にあって原形を留めている。
すぐ傍の幼稚園はさらに「基地化」が進んでいた。キャタピラーの跡はもちろんのこと、トーチカが設けられ、塹壕も掘られていた。
園長のナターリヤさんに話を聞くことができた。
「ロシア軍は33日間、この幼稚園に滞在し基地代わりに使った」。2月27日に侵攻して来て3月30日までいたのである。村人の誰に聞いてもこの期間は一致する。
ロシア軍はシャワーやトイレを使った。ラップトップ3台、テレビ3台、洗濯機を略奪していった。
2月24日の開戦と同時に園児62人全員を避難させた。園児に犠牲者は出なかった。
だが家族や親せきは散々な目に遭った。ナターリヤさんの夫と甥は近隣の家畜が餓死したりしないように餌を与えて歩いていた。
ところが駐留していたロシア軍は2人をスパイであると思い込み、基地に連行した。どの基地かは分からない。3月17日のことである。
夫は基地で10日間拘束され、殴る蹴るの拷問を受けた。甥は若かった(20代)ため、さらに長期間拘束された。
夫は11日目に解放され、甥はロシア軍の撤退時にウクライナ軍から救出された。
夫は拷問で膝に大ケガを負ったためキーウで手術を受け、現在療養中だ。
これだけの蛮行を聞かされても、ナターリヤさんの夫と甥が命を取られなかっただけ まし ではないか? そう思うくらい世界はロシア軍の凶行に慣らされてしまった。
~終わり~
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