「慰安婦発言」で国内外から批判を浴びる橋下徹大阪市長がきょう午前、旧日本軍慰安婦だった韓国人女性2人と面談する予定だったが、急きょキャンセルとなった。
2人は「日本軍慰安婦問題・関西ネットワーク」を通じて今朝、声明を出した。声明によると面会拒否は次のような事情からだ―
「日本の記者から得た情報として橋下市長が土下座して謝罪することを知った…(中略)被害者の胸痛む現実と歴史を橋下市長のパフォーマンスと引き換えにすることはできない」。
一方、橋下市長は夕方、ぶら下がり記者会見を開いた。
土下座しての謝罪パフォーマンスについて記者団から質問された橋下氏は、言下に否定した。いっぽう、これまでの発言については「謝罪も撤回もするつもりはない」とあいかわらずの強気だった。
だが内外から厳しい批判を浴びているためか、橋下氏の発言からは弱気な面ものぞくようになった。
筆者が「もし元慰安婦たちとの面談が実現していたら何と声をかけるつもりだったのか?」と質問すると、橋下氏は「大変な苦痛を味わわれて大変でしたね。僕の発言について傷ついたことがあればお詫び申しあげたい」と殊勝に答えた。
「それは謝罪ではないですか?」と筆者が問うと、橋下氏は「謝罪ですよ」とサラっと答えた。「謝罪も撤回もしない」とする直前の回答とは、明らかに矛盾する。日を追うごとに高まるバッシングで相当に疲れているのだろう。
韓国メディアを中心に海外の記者から厳しい質問が飛ぶと橋下氏は「それは27日の海外特派員協会での記者会見で紙を配って説明します」とかわした。
面談する予定だったのは金 福童(キム・ボクトン)さんと吉 元玉(キル・ウォノク)さん。2人は昨夕、新幹線で大阪入りしていた。
1926年慶尚南道梁山生まれの金さんは、村の区長と日本人から軍服工場の仕事と言われたにもかかわらず、連れて行かれたのは中国広東省の慰安所だった。監視され逃げることもできず、1日に15人、週末は50人超の兵隊の相手をさせられた。その後も香港、シンガポール、スマトラなどへと軍隊に連れられて移動し続けた。
1928年平安北道生まれの吉さんは、13歳の時、「工場で働かせてやる」と言われて付いていったところ、着いたのは旧満州のハルピンの慰安所だった。気絶するほどの暴力を受けながら慰安婦としての生活を強いられた。(金さん、吉さんとも「日本軍慰安婦問題・関西ネットワーク」資料より)
問題の発端は昨年8月、李明博韓国大統領(当時)の竹島訪問にさかのぼる。記者会見で感想を聞かれた橋下市長は歴史認識に踏み込み「慰安婦が強制された証拠はない」と発言。
さらに3日後の記者会見で「“河野談話”より“第一次安倍内閣の閣議決定”を重視する」と答えた。橋下氏が拠り所とする安倍内閣の閣議決定(2007年)だが、具体的には辻元清美議員(当時社民党)に対する答弁書のことだ。
答弁書では「強制連行を直接示す証拠は見当たらなかった」としながらも「(強制性はあったとする河野)官房長官談話を継承する」としている。橋下氏は都合のいいごく一部分だけを抽出しているのである。
橋下市長の発言に反発した「元日本軍慰安婦」の金さんと支援者たちが、昨年9月から面会を要求していた。
それを尻目に橋下氏は以後も持論を展開し続け、国内外に批判の嵐を呼んでいる。吹き荒れる批判の中、ようやく面会実現に漕ぎつけたのだった。
支援者によれば、彼女らの来日後も橋下市長の問題発言が相次ぎ、気持ちが傷ついた。「ハシモトの口を閉めてしまいたい」「ハシモトは面談する相手ではなく、審判する対象だ」…2人は怒りを露わにしていたという。
国際問題にまで発展した橋下発言。国内外の主要メディアがこぞって大阪市役所に集結したが、結局、当事者同士が顔を合わせることはなかった。