1,300人を超える死者を出したイスラエル軍の攻撃が止んで、ほぼ1ヶ月が経つパレスチナ自治区ガザに入った。
「イスラエルを地中海に追い落とす」と唱えるイスラム原理主義組織ハマスを叩くために3週間余りに渡って続いた軍事オペレーションは、死者の半数以上が女性や子供など非戦闘員だった、と伝えられる。
ガザの人々は、イスラエル軍の攻撃をどのようにやり過ごしたのだろうか。2000年9月の第2次インティファーダ(民衆蜂起)以来続く経済制裁のなか、暮らしはどうなっているのだろうか――
ガザは南北に細長い。イスラエルのエレツ検問所をくぐった筆者は、ガザ最北端から最南端のエジプト国境までを一気に車で駆け抜けた。先ずは全体像を把握するためだ。
爆撃に遭ったエリアとそうでない所が、線でも引いたかのように分かれている。イスラエル軍が攻撃対象を明確に絞っていたことが覗える。
爆撃されなかった地区は、中東のどこにでもある街となんら変わりがない。子供達のはしゃぐ声が響き、庭先に干された洗濯物が陽射しを浴びる。長閑だ。
イスラエルとの国境に近い地域は様相が全く逆になる。ガザ南部の主要都市ハンユニスから東へ車で10分余りの村を訪れた。国境まで1キロ足らずだ。ある集落はサッカー場ほどの広さにわたって区画整理でもされているような状態になっている。赤茶けた土の上を小型ブルドーザーがせわしなく動いていた。
ここにあった民家30戸はイスラエル軍に砲撃されほぼ全滅した。
村人のアフマド・アボタイマさん(47歳)は力なく話す。「(陸上部隊の)侵攻が始まる2日前にイスラエル軍から『出て行け』と言われた。拒否したが、戦車の砲撃が始まったので、近くの(国連が運営する)学校に逃れた」。
もうひとつの特徴は、ハマスが使用する自治政府の諸施設が、ことごとく爆撃を受け破壊されていることだ。軍事訓練キャンプや警察施設はしらみ潰しに破壊された。
日本にたとえるなら田舎町の派出所に至るまでだ。カラシニコフやM16自動小銃を手にする警察官は、即戦闘員になるためである。警察官の大半はハマス党員だ。
ガザ市中心部にあった「ハマス政府」のヘッドクォーター(司令部)は、約50m四方にわたって木っ端微塵だ。コンクリートが硝煙と共に砕け散った匂いがかすかに残る。だが、隣り合うビルは爆風で窓ガラスが割れただけで本体はほぼ無傷だ。イスラエル軍が精密誘導弾を投下したものと見られる。
夥しい数のガザ市民が犠牲になったイスラエル軍の攻撃が、ハマスとの戦争だったことを再認識させられる。