大統領府まで100mと離れていない目抜き通りにロシア軍戦車がズラリと並んだ。
他国の民主化を戦車の轍で潰したプラハ侵攻(1968年)、ハンガリー動乱(1956年)もこんな光景だったのだろうか。
もし欧米の武器援助がなかったら、首都キーウはとっくにロシア軍の手に落ち、独立国家であるはずのウクライナはロシアの属領となっていただろう。
24日、首都に空襲警報が頻繁に鳴り響くなか、ウクライナは31回目の独立記念日を迎えた。ロシア軍の侵攻からちょうど半年にあたる。
フレシャーチク通り(日本の銀座にあたる)にはウクライナ軍が鹵獲したロシア軍の重火器が展示された。約70台。
多くの戦車はエンジンが破壊されていて動けなくなっているが、原型をりっぱに留めている。
鮮やかなブルーと黄色の国旗を身にまとったティーンエイジャーたちが、ロシア軍戦車の前で記念撮影に興じていた。
ロシア軍がキーウになだれ込んでいたら、この子たちは、どうなっていたことだろうか。ロシア軍はキーウの北隣りイルピンを落とす勢いだったのである。
ボロディメールさんはソ連支配下の1956年、ニコポールで生まれた。元軍人である。
「今年は独立記念日を簡単に祝えない。多くの人々が死んでいるからね」
「もし軍が私(66歳)を採用してくれたら、戦場に行くよ」
「ロシア軍を我々の国からすべて追い出すまでウクライナ軍は戦うべき」。
カテリーナさん(20代前半)は激戦地の南部からキーウに避難してきた。
「独立記念日だが祝えない。ウクライナの人々が痛みを抱えているから」
「ロシア軍はもちろん追い出すべき。ウクライナのすべての地から」。
東欧とウクライナの歴史を知らない純真な日本の先生たちが「即時停戦」を唱えるが、当事者であるウクライナの民が、老いも若きも徹底抗戦なのである。
~終わり~