足利事件(1990年)で殺人罪などに問われていた菅谷利和さんの無罪を確定する再審が進むなかで、自白を誘導する検察の取調べが改めて問題になっている。
菅谷さんが昨年6月、釈放されてからというものメディア報道は捜査機関(警察・検察)に対する批判一色に染まっている。
筆者は菅谷さんが逮捕された当時の新聞縮刷版を図書館でめくり返した。記事は誰がどう読んでも「菅谷さんが4歳の女の子を殺した」としか読めない書き方だ。
メディアは冤罪を作り出した捜査機関からの情報を垂れ流したのである。にもかかわらず、それには頬被りで今になって「警察・検察はけしからん」「人権を尊重しろ」と叩きまくる。まさに御都合主義だ。
松本サリン事件(1994年)報道も全く同様だった。メディアは警察発表に基づき無実の河野義行さんをあたかも犯人であるかのように報道した。警察の捜査ミスであると分かるや、今度は警察を厳しく批判する側に回ったのである。
検察は公判を維持し有罪を勝ち取るために罪状を絞る。汚職など政治家絡みの犯罪の場合、判決でクロと認定される罪状は、さらに少なくなる。
かりに「●●幹事長はダムと道路と県庁庁舎建設にあたって複数の建設会社から現金合わせて3億円をもらっていた」とする。だが判決でワイロと認定されるのは、そのうちのダム建設だけで、金額も3千万円だったりする。(分かり易くするために例を極端にしました)
いくら黒に近くてもグレーは黒ではない。検察は裁判で黒の認定が取れなさそうな、グレー部分は起訴事実に入れない。このグレー部分を検察は一部のメディアにリークすることがある。記者は功名心で書いてしまう。
『●●幹事長は気に入らないから、この機会に懲らしめてやれ』、『独裁者だから少々叩き過ぎても世論は我々の味方だ』。マスコミ界の思惑と勝手な思い込みも手伝う。
筆者は決して小沢幹事長の肩を持つわけでない。冒頭述べたように捜査機関からの情報を鵜呑みのまま書くと「無実の人を犯人」にしてしまう危険性がある。だから指摘しているのだ。
これから大きな事件があり刑が確定したら、裁判官が認定した事実とメディアが報じた「事実」を比較・検証してみようではないか
*海外在住の皆様も、日本の皆様も、ご自宅から*
オンライン決済サービス Square上で、クレジットカードによる『田中龍作ジャーナル』へのご寄付が可能となっております。
お手元のPCやスマホから手軽に振込めます。面倒な登録は一切ありません。深夜でも可能です。
[田中龍作の取材活動支援基金]*ご自宅から何時でも、24時間 御支援頂けます*
Twitter