治安部隊に踏み込まれた場合を考え、田中は取材した画像と情報を一分一秒でも早くアップロードしなければ、と焦った。取材は2011年2月。
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最低賃金の引き上げを求めてゼネストを唱える若者のグループが、ネットでデモを呼びかけた。グループ(※)は現地で「チーム1月25日」と呼ばれるようになった。
30余年にわたって続いた独裁政権を倒した大規模デモはこの日始まった。チームの呼称は日付にちなんだものだ。
エジプトは地域の大国でもあることから、中東じゅうに吹き荒れた「アラブの春」のなかでも、影響はひと際大きかった。
海外メディアに対する当局の報道規制は厳しく、ムバラク支持派の民衆は軍のお先棒を担いだ。
週刊誌で名を馳せる某カメラマンは、入国の際、機材を没収された。ムバラク支持派の民衆に捕まり、ボコボコにされたあげく軍に突き出され、拘束されるジャーナリストが相次いだ。報道に接する度に「今度はオレの番か」と腹をくくった。
投宿するホテルの正面玄関には戦車が横づけされていた。田中はいつも裏口から出入りした。
軍用ヘリは民衆で埋め尽くされたタハリール広場の上を低空飛行で旋回した。一日中ひっきりなしだ。ローターの重低音は10年経った今も耳に響く。
治安部隊が部屋に踏み込んで来ることを恐れ、現場で取材した情報(写真、原稿)は、一分一秒を急いでアップロードした。
田中がタハリール広場に出入りできたのは、投宿先のホテルが、反ムバラク派の民衆が押さえるゲートの傍だったからだ。
反対側のゲートは親ムバラク派が押さえる。知らずにこちらを利用したジャーナリストは前述のように受難した。
大規模デモはFacebookなどを通じて呼びかけられていたため、政府は一時、ネットを遮断した。
だがムバラク打倒を叫ぶ人々は携帯電話のメッセージ機能で連絡を取り合った。政府の締め付けは裏目に出た。タハリール広場に集まる民衆の数は膨れ上がることになった。危機感から反発したのだ。
アラブの春の発端はこうだった―
前年(2010年)末、チュニジアで露天商の青年が行政の過剰な取り締まりに抗議して焼身自殺したのを機に、失業者たちが蜂起し、ついにはベンアリ大統領を国外に追放した。
コロナの影響で事実上の失業者が激増し、国民が食えなくなっているのにもかかわらず、スガ政権の対応は、あまりにお粗末だ。棄民政策と言っても差し支えないほど国民は蔑ろにされている。
アラブの民衆だったらどう動くだろうか。
(※)
海外メディアの呼称は「4月6日青年行動(6April Youth Movement)」となっている。
~終わり~
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田中龍作は世界どこに行っても民衆の立場から権力を監視します。取材費は読者のご支援により賄われています。↓