
ゲートの先には上陸訓練用のビーチがある。米兵に語りかける吉田・元沖縄県政策調整官。=10日、金武町 撮影:田中龍作=
吉田勝廣。1945年(昭和20年)3月28日、混乱のなか金武町で生まれた。米軍上陸の4日前である。
赤ん坊は泣くのが仕事だ。米軍の上陸が始まったため、母親は赤ん坊を抱いてガマに逃げ込みたかったが、泣けば日本軍に口を塞がされて殺されるのは必定である。
米軍の砲弾が降り注ぐなか、母親と赤ん坊はフクギの木の下で過ごした。

2016年、当時20歳の女性が米軍属に暴行の末殺害された。吉田は7日と空けず供養に通う。=10日、うるま市 撮影:田中龍作=
吉田の面目を躍如させたのは金武町長(1994~2002年)時代に米軍の「県道104号線越え実弾射撃演習」を止めさせたことである。
キャンプハンセンは金武町の総面積の60%を占める。海兵隊は町民の生活道路である県道104号線を封鎖して実弾をぶっ放していた。実弾が県道を跨ぐのである。
基地近くの住民に話を聞いた。農家の男性だった。彼は渋い顔で「朝から晩までひっきりなしだった。10万発くらい撃ってたんじゃないか」と当時を思い起こしていた。
キャンプハンセンの実弾演習は「山の形が変わるくらい撃っていた」と言われるほど過酷だった。
基地には現在のようなフェンスがなかったこともあり、吉田は労働組合員や学生を動員して、演習場内に座り込みをさせた。それも発砲地点と着弾地点だ。
撃てば座り込みの労働組合員や学生が死傷する。さしもの米軍も撃てなかった。
一方で“外交交渉”も展開した。在沖米軍司令官、在日米軍司令官、太平洋軍司令官と渡り合った-
「ハワイでは山の形が変わるほどまで撃たないでしょ?」「どうして沖縄だけ」というロジックだった。
交渉の甲斐あって県道104号線越えの実弾演習は中止となった。

「あそこに大砲4~5門が置かれていて山に向けて撃っていたんだ」。=10日、金武町 撮影:田中龍作=
吉田が辺野古のキャンプシュワブ前で座り込みをしていたところ、携帯電話が鳴った。電話の主は就任間もない翁長知事(2014年末~2018年8月)だった。
「政策調整官に就いてくれないか」という要請だった。政策調整官は知事、副知事に続く沖縄県のナンバー3である。翁長知事は「基地問題に詳しい吉田さんに是非ひき受けて頂きたい」と頼み込んだ。吉田は引き受けた。
田中は政策調整官の部屋を訪ねたことがあるが、その広さに驚いた。沖縄県ナンバー3に相応しい威容だった。
2018年夏、翁長知事が病死し、後任を選ぶことになった県知事選挙が実施されることになった。
翁長知事の遺志を受け継ぐ玉城デニーと自民党系の佐喜眞淳の争いとなった。
田中は「吉田さん、もし佐喜眞が当選したらどうしますか?」と聞いた。
吉田は「うん。そりゃ辞めるよ」とニベもなく答えた。
選挙は玉城デニーが勝利し、後任の知事となった。吉田は政策調整官として留任しデニーを支えた。
米軍上陸が迫るなか、日本軍から殺されるのを避けるためガマの外で生まれた吉田。父親が米兵のデニー。沖縄戦と占領下の苦難の歴史を体現する2人が、沖縄の平和をかろうじて守ってきた。

基地の島の選挙であることを嫌でも感じさせる。=10日、金武町 撮影:田中龍作=
2018年の県知事選挙の際、吉田は「デニーが負けたらヤマトに踏み潰されるぞ」と警告していた。選挙は幸いにしてデニーが勝った。
あれから8年。デニーはデマやオール沖縄の事実上の崩壊により厳しい戦いを強いられている。
田中は吉田にあらためて聞いた。「デニーが負けたらどうなるか」と。
「かなり危ない。米軍と自衛隊のやりたい放題となる」「古謝は米軍に強いことを言えないから米軍の犯罪は増える」。吉田の予言通りとならないことを祈るのみだ。
(文中敬称略)
~終わり~
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