「予算案は2日に衆院を通すことで(自民党と立憲の間で)話ができているみたいだね」。前日、永田町を歩いているとある国会議員が明かしてくれた。
元社会党の古参秘書は「当時、自民党と裏で握り合っていた節もあったが、戦う時は徹底的に戦った。今のように最初から握り合っていたりはしなかった」と腹立たしそうに語った。
村山富市元首相は社会党でありながら保守政治家であったため、「自民党村山派」とまで揶揄された。自社さで自民党を政権復帰させた “主役” だった。
それでも社会党国対委員長として自民党に徹底抗戦した。それはPKO国会(1992年)に象徴される。社会党衆院議員132人全員が議員辞職届を出して衆院を解散に追い込む作戦に出たのである。桜内議長は受理しなかった。
もちろん牛歩戦術も使った。
PKO法案は自衛隊を海外に派兵することを可能にする法律だった。安保法制(2015年)どころの騒動ではなかった。究極の与野党対決法案だったのである。
田中は自衛隊派遣先のカンボジアに向けて渡航準備を進めていたので、国会の行方をハラハラしながら見守った。
村山氏は清貧なことで有名だった。田中は大分市の邸宅を訪ねたことがある。近所の人に「村山富市さんの自宅はどこですか?」と尋ねると「あれです」と指差された。腰を抜かすほど驚いた。指の先にあったのはあばら家だった。
学徒動員を経験している村山氏は骨の髄から「反戦」だった。PKO法案で自民党に妥協するわけにはいかない人生を背負っていたのだ。
氏がカネにきれいだったことを物語るエピソードがある。自民党側から国会対策費として提供された現金500万円を突き返したのだ。
記者団「500万円を自民党に突き返したって本当ですか?」
村山氏「そんなん相手に悪うて(相手の立場を考えると)言えんわ」
社会党の衆院議員132人全員が辞職届を書いて、自民党に徹底抗戦する。
あれから30余年。野党第一党はすっかり変容した。国対委員長も。
~終わり~
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