インドネシアの最西端アチェの独立戦争に人生を捧げた男が3日、84年の生涯を閉じた。男の名はハッサン・ディ・ティロ。中央政府(国軍)と30年間に渡って内戦を繰り広げた武装組織GAM「Gerakan Ache Merdeka(自由アチェ運動)」の指導者である。
中央政府は天然ガスやゴムなどアチェの豊かな天然資源を武力で独占しようとした。これに銃を持って立ち上がったのがハッサン・ディ・ティロ氏率いるGAMだった。1976年のことだ。
インドネシア国策企業である天然ガス工場は日本政府のODAで建設された。とにかく広大だ。横を車で走っても30~40分間は工場の景色が続く。GAM兵士やGAMとの関わりを疑われた住民は、工場内にある拷問部屋で阿鼻叫喚の責苦に遭ったあげく殺された。
豊富な天然ガスに目をつけた日本企業が後押しする政府のODAがなければ、苛烈な内戦はなかったかもしれない。少なくともアチェの人々を拷問の恐怖に震えあがらせることはなかっただろう。
アチェはイスラム教徒の国インドネシアの中でも他地域に比べて原理主義の色が濃く、独立心も強い。インドネシアを植民地化したオランダに最後まで抵抗した地域がアチェだった。GAMの武装闘争がアチェの民衆から支持されたのは、こうした宗教観や歴史があるからだ。
圧倒的な火力を誇る国軍にゲリラ戦を挑むGAMは80年代には、リビアまで足を伸ばし軍事教練に参加したこともあった。だが多勢に無勢。GAMはしだいにジャングルの奥に追い詰められていった。
ハッサン・ディ・ティロ氏ら指導部はスウェーデンに逃れ亡命政府を立ち上げた。筆者は05年、ストックホルムの亡命政府を訪ねた。中央政府との和平が大詰めを迎えていた頃である。
30年間、北欧ストックホルムから遠く離れた赤道直下のアチェにどうやって指示を出しているのかをゲリラ指導者に聞いた。ティロ氏は5年前に脳梗塞を患ったため舌が時折もつれる。相手の言葉に対する反応も遅れがちだ。インタビューの最中、イビキを立てて眠りに落ちる場面もあった。
筆者はアチェで撮影してきたスチール写真20数枚をティロ氏の前に置いた。写真をパラパラとめくっていたティロ氏の手が止まった。ユドヨノ大統領とユスフ・カラ副大統領がプリントされたTシャツを着た男性の写真を見つけた時である。
「インドネシアガバメント、ノー!」。ティロ氏は鋭く唸って写真を叩きつけたのだった。眼光は刃物のように不気味に輝いた。老いたりとはいえ、ゲリラ指導者の紛れもない凄味だ。
アチェ和平が05年8月調印され、08年10月には和平の功労者であるフィンランド元大統領のアハティ・サーリ氏がノーベル平和賞を受賞した。ティロ氏は身の安全確保のため、アハティ・サーリ氏のノーベル平和賞受賞を待つようにしてアチェの土を踏んだ。
州都バンダアチェではティロ氏の30年ぶりの帰郷を祝うセレモニーが催され、中央モスク前広場は大勢の人で埋め尽くされた。ティロ氏を見たことさえない若者もマザーランドのカリスマに熱狂した。
アチェは04年末、スマトラ沖大津波が発生するまで、海外ジャーナリストの立ち入りがシャットアウトされた秘境だった。ハッサン・ディ・ティロ氏らのヨーロッパ亡命がなければ、アチェの苛酷な実態は世界に知らされないままだったこともあり得る。
日本のODAがもたらしたとも言えるアチェ内戦。住民を震え上がらせた国軍の撤退を勝ち取ったゲリラ指導者は、故郷の病院で静かに息を引き取った。日本の新聞は片隅でベタ記事として扱った。
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