
オスロ合意調印式・1993年。ラビン首相(左)とアラファトPLO議長。=場所:ホワイトハウス・ローズガーデン 写真:クリントン・ライブラリーより=
パレスチナ和平は卵の殻のように脆かった。たった2人のユダヤ教極右青年がぶち壊したのだから。
順を追って話そう。半世紀にわたって続いてきたパレスチナとイスラエルの血塗られた争いに終止符を打つ画期的な取り決めがあった。『オスロ合意』(1993年)である。
パレスチナ側はテロを止め、イスラエル側は占領地を返す。土地と平和の交換である。
調印者はイスラエル側がラビン首相。パレスチナ側がアラファトPLO議長。両者とも民族の英雄である。
第3次中東戦争(1967年)の際、将軍ラビンはわずか6日間で、ヨルダン川西岸(ウエストバンク)を奪取、占領した。
国土を持たなかったため世界中を彷徨い虐待されてきたユダヤ人にとって、「土地を返す」のは身を切り取られるに等しい。
それでもイスラエルの人々はオスロ合意を呑んだ。「ラビンが取り返してくれた土地をラビンが返すのだったら仕方がない」と言って。

ベングビール国家安全保障相。=写真:クネセット(イスラエル国会)より=
画期的な和平合意を結んだアラファトとラビンにはノーベル平和賞が贈られて当然だった。誰もが平和が訪れるものと思った。
ところがラビンはユダヤ教の極右青年に暗殺される。現場はテルアビブ市役所前広場、凶器はピストルだった。1995年11月4日。歴史が暗転し始めた日だった。
世界を震撼させたラビン暗殺をめぐって、驚愕の事実が浮かびあがる。
ベングビール青年(現国家安全保障相=写真2段目)がラビンの車から、エンブレム(飾り金具)を剥がし、戦利品のごとく見せびらかしていたのだ。
極右界隈にラビンの警備が緩いことが知れ渡る。それが凶行へと結びついて行った。ベングビールは犯人ではないが、結果として暗殺を唆したことになる。

パレスチナ国旗を引きずり下ろしに来たイスラエル国境警察。=2023年1月、東エルサレム 撮影:田中龍作=
それから約30年、ベングビールは国家安全保障相となり、パレスチナ住民に対するエスニッククレンジング(民族浄化)に血道をあげる。
ベングビールらによる極右政権が誕生しかけると、田中はすぐにパレスチナに飛んだ。2022年末のことだ。
現地で田中が目にしたのは想像を上回る過酷な事態だった―
西岸では毎日のようにパレスチナ住民がイスラエル軍により射殺されていた。
東エルサレムでは、パレスチナ国旗を家の前に掲げると、国境警察が駆け付け武力で引きずり下ろした。
「西岸にパレスチナ人の住む所はなくなる」とうそぶくベングビール。

イスラエル軍に射殺された少年は額を撃ち抜かれていた。2023年1月、西岸ナブルス 撮影:田中龍作=
極右の相棒スモトリッチ財務相が予算をつけてユダヤ人入植地を拡大すれば、その分、パレスチナ人の土地は減る。スモトリッチは西岸の8割をユダヤ人入植地にすると豪語する。
最高権力者のネタニヤフ首相は極右閣僚の言うことを聞かざるを得ない。連立から抜けられれば、首相でなくなるからだ。
彼らの要求は無理でも通る。パレスチナ情勢は再び暗転し始めた。
~終わり~
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BBCの映像で見る限り、ガザはイスラエルの攻撃が小休止し(あくまでも8日現在)、復興に向かいつつある。
逮捕逃れのために、どうしても戦争を続けたいネタニヤフは、停戦協定を破ってレバノン南部への攻撃を再開した。
パレスチナもレバノンも田中のホームです。現場で取材しないことには本当の惨状が伝わりません。





