停戦2日目となった6日、ガザは一気に活気に溢れた。戦争中、シャッターを下ろしていた商店街は、ほとんどの店がオープンした。
家財道具を積んだ車が、ガザ中心部から郊外に向けて走る。人々は激戦地だった故郷に戻りつつある。
イスラエルは密告情報などに基づきハマス(あるいは「イスラム聖戦」)のロケット弾が尽きつつあることを知っているようだ。ガザの人々はそれを読んで帰郷を始めたのだ。
最激戦地だったベイトハヌーンにも、少しずつ住民が戻ってきていた。北部最前線のベイトハヌーンは、イスラエル南部の住宅街に近い。
国土防衛上、イスラエル軍は停戦中であろうともベイトハヌーンを爆撃していた。停戦でシジャーイヤやフザー村といった激戦地に住民が一時帰宅しても、ベイトハヌーンはゴーストタウンだった。
イスラエル軍の猛爆撃を浴びた街は廃墟と化していた。同じ廃墟でもシジャーイヤやフザー村とは景色が違った。ベイトハヌーンは建物が粉々にされていた。
景色は違っても他の地区と共通するものがあった。死臭だ。瓦礫の下に埋もれている人間の遺体や動物の死体が異臭を放つ。鼻孔を突いた。
ベイトハヌーンを印象づけたのは、国連の避難所がイスラエル軍に爆撃されたことだった。
7月24日夕方、UNRWA(国連パレスチナ難民救済機関)の小学校にイスラエル軍の対人ミサイルを撃ち込まれ、避難民16人が死亡、200余人が負傷した。
今でこそイスラエル軍による国連の避難所爆撃は当たり前のようになっているが、ベイトハヌーンが第1号だった。
爆撃当時、避難所上空を無人爆撃機が超低空を飛んでいた。筆者も撃たれるのではないかと、恐ろしくてたまらなかった。この日、再び避難所を訪ねた。
UNRWAの小学校校舎に人々が戻って来ていた。ラビル・カファルナさん(39歳)は8人の子供と共に避難していたところを爆撃された。
「1発目が撃ち込まれて、すぐに脱出を始めた。校庭には数人の死体が横たわっていた。子供たちが泣き叫んだ」。ラビルさんは顔をしかめながら10日前の出来事を振り返った。
ラビルさんの家は爆撃で破壊されている。忌まわしくて恐ろしい思い出の詰まった避難所での暮らしが当分続く。
それでも爆撃に脅えなくて済む終戦が、待ち遠しいに違いない。
◇
読者の皆様。田中はクレジットカードをこすりまくってガザに来ております。借金です。ご支援よろしくお願い致します。