7か月ぶりにタハリール広場に立った。「打倒ムバラク」を叫ぶ民衆の声が地鳴りのように響いたのがつい数日前のようだ。再現を警戒し広場には警察の機動隊が24時間体制で貼りつく。
インターネットが火を付けた「エジプト市民革命」は2月11日、ムバラク大統領を辞任に追い込み勝利した。それからわずか5日後には隣国リビアに飛び火する。東部の主要都市ベンガジで「反カダフィ・デモ」が発生したのである。体制批判は即、逮捕のリビアで民衆が独裁政治に異を唱えたのだ。
エジプト、リビアの革命に共通するのは、国民の生活を顧みない為政者は倒されるということである。リビア民衆の蜂起がなければNATOも介入できなかった。
もうひとつ共通することがある。新聞・テレビが独裁者のプロパガンダであることを民衆が知っているということだ。エジプトでは体制に窒息しそうな人々がネットでつながり、リビアでは「打倒カダフィ独裁」を叫ぶ生の声が大きくなり、ついには武装蜂起を呼んだ。マスメディアによる情報操作など人々には通用しないのである。
7か月前、タハリール広場でよく耳目に触れたのは「誰も新聞やテレビを信じちゃいない」というフレーズだった。
日本では国民がまだ新聞・テレビの報道を信じている。世界の原子力史上最悪の事故となった福島原発の爆発・放射能漏れで明らかになったのは、日本のマスコミが巨額の広告費欲しさに「原発安全神話」を30~40年にもわたって振り撒いてきたことだった。
新聞・テレビは事故発生後も「心配ない、ただちに健康には影響ない」とする東電と政府の発表を垂れ流し続けてきた。記者クラブを通じて政府、東電にどっぷりとお世話になっているからだ。
今なお「フレッシュな放射能」が降り続けているのにも関わらず、福島の人々は経済的な事情などで避難しようにもできない。集団疎開を求める声にマスコミは冷淡だ。ばかりか避難地域の指定を解除しようとする政府のために世論形成を手伝うような報道が目立つ。福島の人々は被曝を強いられるのである。
体制批判をしたからといってリビアのように政治犯収容所に入れられることはない。拷問されることもない。だが、「放射能収容所」から逃れられない。被曝の恐怖に晒され続ける。
人権問題と言って何らさしつかえない。日本の新聞・テレビがまっとうであれば、幾分は事態を改善できるはずだ。
原発事故で見えたのは、日本が「政・財・官・報複合体」による緩やかな恐怖政治、独裁政治のもとに置かれているということである。
「アラブの民主化」は敵がはっきり見えていたから戦いやすかったとも言える。日本人は「緩やかな独裁」という真綿で首をしめられ、気が付かないうちに窒息しつつあるようだ。