取材車はイスラエルと国境を接するガザ北部の町、ベイトラフィーヤを走っていた―
「キーン」。金属音と共に頭のすぐ上をハマスのロケット弾が、イスラエルの方向に飛んで行った。
それから3分も経たないうちに「ドーン」「ドーン」。イスラエルの空爆が始まった。絵に描いたような報復攻撃である。
最後まで北部国境の町に残っていた人々は、ひと塊になって南に逃げ始めた。ロバは いななき、車は猛スピードで南下する。
「イスラエルがランダムアタックを始めた」。少年は筆者が海外のジャーナリストだと分かると叫ぶように言った。
救急車は逆方向に走った。逃げ遅れて爆撃に遭い、負傷した住民の救出に向かっているのだ。
《 国連の小学校「ここでは収容しきれない」》
ベイトラフィーヤやアル・シジャーイヤなどイスラエル軍の猛攻にさらされている地区の住民たちのほとんどは、ガザ市内にある国連の施設に避難してくる。
イスラエルの空爆が始まった8日からこれまでに5万5千人が、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の運営する44ヵ所の学校などに避難している(20日現在、UNRWAまとめ)。
毎日、続々と避難者がやって来るため、多くの小学校は満杯だ。「ここでは収容しきれないので、よそに回している」。ある小学校のUNRWAスタッフは肩をすぼめた。
アル・シャティ小学校には45の教室に1,450人の避難民が収容されている。6~7m四方の狭い教室に30人余りが暮らす計算だ。
1階の教室に苦しそうに横たわっている老女性がいた。ベイトラフィーヤから逃れてきたアンナ・アル・トンさん(76歳=写真)だ。
ここに着いたのは空爆開始から4日後の12日という。高血圧と糖尿病を抱えるアンナさんにとって避難所の生活は つらい。
糖尿病は食事療法を欠くことができない。自宅にいた時のメニューは「野菜」「果物」「スープ」だった。避難所は「パン」「ツナの缶詰」「ジュース」だ。
狭い、暑い、病気の体には良くない食事・・・
アンナさんはガザ市内の病院で診てもらったところ医者から「先は長くない」と宣告された。
国連の避難所(小学校)があるガザ市は、ベイトラフィーヤから直線距離にしてわずか6㎞だ。
住民たちはイスラエル軍の空爆をまぬがれて、命からがら避難所にたどり着く。だが年寄りや弱者にとっては辛いことだらけだ。
「ここは地獄だ。食べる物も着る物もない」。アンナさんは うめく ように言う。
「サラーム(さようなら)」。別れの握手をしたアンナさんの手に力はなかった。
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