2009年、イスラエル軍の軍事侵攻で娘3人を失ったガザの医師がきょう、日本外国特派員協会で会見を開き、「憎しみを乗り越えよう」と非戦を訴えた。
会見したのはパレスチナ・ガザ地区で初めて医師免許を取得したイゼルディン・アブエライシュ氏(1955年生まれ)。現在、カナダのトロント大学で教鞭をとる。自著「I Shall Not Hate ( 邦題:『それでも、私は憎まない』 亜紀書房刊)」のプロモーションのため来日した。
アブエライシュ医師は21歳のビサンさんを頭に、マヤールさん、アヤさんという3人の娘達を一瞬にして空爆で失った。自宅がイスラエル軍の爆撃を受けたのだ。
イスラエルの病院で働いていたアブエライシュ医師にまさかの仕打ちだった。周囲は「きっと復讐心に燃えるだろう」と期待したのだという。
09年イスラエルの軍事侵攻直後、筆者はガザに入った。空、海、陸からの猛攻撃で一面ガレキ野原と化していた。パレスチナ人権センターによると非戦闘員926人が死亡した。後に国連人権委員会が虐殺の調査に入るほど、凄まじい殺戮が繰り広げられた。
生き残ったもう一人の娘は片目と右手指を失ったが「まだ片目がある。もうひとつの手がある」と言って左手で字を書く練習を始めた。
アブエライシュ医師は「憎しみに気をとられてはいけない。憎しみは自己を崩壊させる病気だ。強くなれ、犠牲者然とすることを受け入れるな」と自ら念じたという。
「暴力と嫌悪、病気は相互に関係している。相手を憎まない、被害者にならないという生き方を “ガンジーのようだ” とか、 “ポジティブ・サイコロジー” と評する人も出てきた。私は、弾丸は弱い者達の武器、智慧は強い者の武器だと思っている。この希望のメッセージを伝えることが私の使命だ」と語り、憎しみを超越する心を持つことを強調した。
空爆当時の記憶は今もアブエライシュ医師の胸をしめつける。「5年の月日もほんの一瞬のことのように思える。今も脳裏から離れない」「私は決してリラックスしないと娘達に誓った」。目頭を赤くしながら語った。
のちに彼がカナダで立ち上げたイスラム女性の教育支援団体「the “Daughters for Life Foundation”」は、国籍を問わず奨学金を授与する。記者団に配られた財団のカードにはガザの海岸で憩う3人の娘たちのありし日の姿が印刷されていた。
会見後、アブエライシュ医師に「もしハマスなどがこの“相手を憎まない”考えを受け入れ、復讐せず攻撃をやめたら、ガザの状況は好転するか?」と問うた。
「イスラエルが協定(オスロ協定1993年)を守り、入植をせずに攻撃をやめることが必要だ。そうすれば誰もイスラエルを攻撃することはない」。アブエライシュ医師はきっぱりと断言した。
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※オスロ合意
1993年、 イスラエルとパレスチナ解放機構(PLO)との間で結ばれた和平協定。
1)パレスチナはイスラエルを国家として認め、イスラエルはパレスチナ自治政府による自治を認める。
2)イスラエルが第3次中東戦争(1967年)で獲得した占領地をパレスチナに返還する。
オスロ協定は「土地と平和の交換」といわれ、PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相は、合意翌年(1994年)にノーベル平和賞を受賞した。